
季節という名のブースト
10月に入り、空気の味が変わった。 まとわりつくような湿気は消え、夜風が肌をサラリと撫でていく。 金木犀(キンモクセイ)の甘い香りが、どこからともなく漂ってくる。
私はいつものように、全身黒のウェアに身を包み、左腕に青いLEDバンドを巻いて玄関を出た。 軽く足首を回す程度の準備運動だけ済ませ、すぐに走り出す。
一歩目を踏み出した瞬間、違和感があった。 良い意味での違和感だ。 体が、軽い。 夏の間、あれほど鉛のように重かった四肢が、今日は驚くほどスムーズに前へと出る。
気温20度、湿度45%。なるほど、これが『走りやすい』ってことか
走り出してすぐに、その違いを実感した。 心拍数が上がらない。 夏場は走り出して5分で息が乱れていたペースでも、今の季節なら鼻歌交じりで走れる。 汗はかくが、すぐに乾くので不快感がない。
これは単に涼しくなったからだけではないだろう。 あの過酷な夏の間、サボらずにLSD(長くゆっくり走る)を信じて走り続けたこと。 そして、暑い中でも動き続けたことで、私の心肺機能が確実に強化されていたのだ。 季節の変わり目が、私に「ブースト(加速装置)」をかけてくれている。
1キロ、2キロ。 足取りは軽快だ。 厚底シューズが地面を捉え、その反発を推進力に変えていく。 いつもなら「そろそろ折り返そうか」と考える、いつもの3キロ地点の橋に差し掛かった。
時計を見る。 心拍数は安定している。足の痛みもない。まだ余力は十分にある。
今日は、いけるな
私は橋を渡らず、その先の「未踏のエリア」へと足を向けた。 目指すは、今まで一度も到達したことのない距離。5キロだ。
3キロを超えると、不思議な感覚が訪れた。 いつもなら感じるはずの「飽き」や「疲れ」が来ない。 一定のリズムで腕を振り、足を置く。 タッタッタッという自分の足音だけが響く。 その単純な反復動作が、なぜかとても心地よい。
頭の中がクリアになり、日中の仕事の雑音や、細かい悩みが消え去っていく。 ただ「走っている自分」だけがそこにいる。 これが、ランナーたちが言う「無心」というやつだろうか。
4キロ地点で太ももが少し重くなったが、それは不快な痛みではなく、私が自分の足で地面を蹴っている証拠としての、心地よい疲労感だった。
そして。
『5.00km』
手元の時計がブルッと振動し、目標の到達を告げた。 私はゆっくりと足を止め、夜空に向かって大きく息を吐いた。
……ふぅ。走れた。ノンストップで、5キロ
半年前、駅の階段を上っただけで死にかけていた男が。 今、5キロという距離を、一度も歩くことなく走りきったのだ。
額からあふれ出る汗を拭う。 それは夏のようなベタつく不快なものではなく、サラサラとした達成感の味がした。 心地よい風が、火照った体を冷やしてくれる。
私は自動販売機でスポーツドリンクを買い、一気に飲み干した。 最高に美味い。どんな高級な酒よりも、今の私にはこの一本が輝いて見えた。
この日、私は初めて自分自身を認めることができた気がした。 ただのダイエット目的のおじさんではない。 私は今、間違いなく「ランナー」になったのだ。