金曜日の夜。 私は左腕に、新たな相棒「アームバンド」を装着していた。
鏡の前でポーズを取る。 黒いバンドが二の腕にフィットし、スマホはガッチリと固定されている。 イヤホンはしない。夜道を走るのに耳を塞ぐのは危ないし、せっかくの静寂を楽しみたかったからだ。 見た目は完全に「いっぱしのランナー」だ。
完璧だ。これで手ぶらで走れるし、距離も測れる
私は意気揚々と夜の街へと駆け出した。
***
走り出しは最高だった。 ポケットの中でスマホが暴れないだけで、こんなに走りやすいとは。 厚底シューズのクッション性も相まって、どこまでも走れそうな気がした。
しかし、その快適さは長くは続かなかった。 走り始めて数分。ふと**「距離」**が気になり始めた。
前回の「2.8kmショック」がある私にとって、今自分が何キロ地点にいるのかは死活問題だ。 「もう1キロはいったか? まだ500メートルか?」 私は走りながら、左腕の画面を見ようとした。
スマホは二の腕の外側に固定されているため、そのままでは見えない。 右手を添えて腕をグイッと顔の方へ引き寄せ、首をひねって覗き込む。
……ん、よいショッ
転ぶほどではないし、大した手間でもない。 ただ、画面を見る一瞬だけ、腕振りのリズムが止まり、フォームが窮屈になる。
数百メートル走るたびに、気になってまた確認する。 腕を引き寄せる。首をひねる。 「まだ1.2キロか……」 その「小さな動作」の繰り返しが、地味にストレスとして蓄積されていく。
気を取り直して走る。 すると今度は、左腕の骨に直接響くような振動が走った。
ブブブッ。
通知だ。 友人のLINEか、ニュースアプリか。 「距離」は見たいが、「通知」は見たくない。 だが、画面を見ないとそれが何なのか分からない。 私は無視することにした。
だが数分後、また振動。
ブブブッ。
今度は仕事のチャットツールだ。 さすがに仕事となると無視できない。緊急のトラブルかもしれない。 私は走りながら、また窮屈な姿勢をとって画面を覗き込んだ。 心拍数を上げながら、小さな文字を目で追う。
『[営業] 佐藤:@Yamamoto 資料ありがとうございました! 助かりました』
私はガクッと力が抜けた。 ただのお礼だ。丁寧なメンションだ。 普段なら嬉しい言葉だが、今は違う。
この「ありがとう」を確認するためだけに、私は走るリズムを崩し、首をひねり、必死に画面を覗き込んだのか。 その労力と、得られた情報の重要度が釣り合っていない。
だめだ、これじゃ走りに集中できない
距離を知りたい欲求と、通知というノイズ。 それらが混在しているせいで、私は何度も腕を覗き込み、そのたびに集中力を削がれている。 私はスマホを取り出し、設定画面を開いた。
せめて通知だけでも来ないようにしよう
私はiPhoneの「集中モード」をオンにした。 これでランニング中は通知が来ない。振動もしない。
私は再び走り出した。 今度こそ、誰にも邪魔されない時間が訪れる……そう思っていた。
しかし、走り始めて5分もしないうちに、また別の問題が浮上した。
(……本当に何も来てないか?)
静かすぎるのだ。 仕事柄、サーバーのアラートや緊急連絡には敏感になっている。 「通知をオフにしている」という事実が、逆に「今この瞬間に何か起きているんじゃないか」という不安を増幅させる。
さらに、「距離」は依然として気になる。 「通知は来ていないか確認したい」「今何キロか知りたい」。 その欲求が湧くたびに、私は走りながら腕をぐいっと引き寄せ、首をひねって画面を覗き込む。
『通知はありません』 『走行距離:1.8km』
ホッとするのと同時に、落胆する。 まだ1.8kmか。そして通知は来ていない。 その確認のためだけに、またフォームを崩した。
……なんだこれ。走る以外のことに気を使いすぎている
私は愕然とした。 アームバンドは、スマホを「携帯」するには最適だが、情報を「選別」してはくれない。 距離だけを知りたいのに、スマホがある限り、通知の影や、操作の煩わしさがついて回る。
もしこれが、手首にあるスマートウォッチだったら? 手首をチラリと返すだけでいい。 首をひねる必要も、腕を引き寄せる必要もない。 走るフォームを維持したまま、視線だけを動かせば、そこに「距離」が表示されているはずだ。
私はアームバンドをバリバリと剥がした。 汗ばんだ腕が外気に触れる。
スマホごと持ち歩く必要なんて、なかったんだ
私が欲しかったのは、スマホそのものではない。 スマホの中にある「GPS機能」と「時計機能」だけだ。 他の機能(チャットやニュース)は、ランニングにはノイズでしかない。
帰宅後、私はPCを開いた。 前回の検索結果を思い出す。
『ランニング 距離 計測』
検索した時に出てきた、もう一つの選択肢。 当時は「まだ早い」と切り捨てたが、今の私にはそれが唯一の正解に見える。
スマートウォッチ。
これなら手首を見るだけで距離が分かる。 そして何より、GPSを内蔵していてスマホを家に置いたまま走れるモデルがあるはずだ。 そうすれば、物理的に通知は届かない。 「見えない通知」に怯えることもない。
私は迷わず、評価の高かった黒いエントリーモデルをカートに入れた。 私が求めていたのは、「スマホを無理やり持ち歩く方法」ではなかった。 走るために必要な機能だけを、この身一つで持ち出すこと。 それを可能にするのは、あの時計しかなかったのだ。