
「ドスッ、ドスッ」と重たい音を立てていた私の横を、風が通り抜けた。
――時が止まった気がした。
すれ違ったその男の年齢は、おそらく私と同じ40代半ば。 だが、生物としての種別が違うのではないかと感じるほど、私とは何もかもが違っていた。
身体にピタリとフィットした黒いインナーに、白いランニングウェア。 手首には、青白く光る液晶画面を持つスマートウォッチ。 腕には闇夜に存在を知らせるLEDのアームバンド。 そして足元には、街灯の光を反射して輝く、鮮やかなネオンイエローの厚底シューズ。
何より衝撃だったのは、彼の表情だ。 私のように苦悶の色など微塵もない。 涼しい顔で、一定のリズムを刻み、私の倍以上のスピードで走り去っていった。 残されたのは、汗だくで立ち尽くす私の荒い息遣いだけ。
……嘘だろ
私は思わず足を止め、遠ざかるその背中を見送った。 同じ人間か? 同じ40代か? 悔しさというよりは、純粋な驚きだった。 あんな風に走れたら、どんなに気分がいいだろう。 今の私のような「苦行」ではなく、あれこそが本来の「ランニング」なのだろう。
その夜、私は痛む右膝を引きずりながら、惨めな気持ちで帰宅した。 3日間走った感想は「ただ辛いだけ」。 明日走ることが、少し憂鬱になってしまった。
シャワーを浴びてベッドに入っても、脳裏には颯爽と走るあのランナーの残像と、あのネオンカラーのシューズが焼き付いて離れなかった。
*
翌朝、身体には明確な「異変」が起きていた。 右膝の痛みだ。 歩くたびに、膝の奥がきしむような嫌な鈍痛が走る。 3日間の無理がたたったのだ。階段を降りるのが怖い。
……あー、痛い。これは無理だな。今日は休みだ
独り言を呟きながら、私は胸の奥で「助かった」と安堵のため息をついていた。 痛いのは辛い。だが、これで走らなくて済む。 「膝が痛い」という、誰に説明しても恥ずかしくない正当な理由が手に入ったのだ。 三日坊主ではない。ドクターストップに近い「勇気ある撤退」だ。
私は湿布を貼った足を引きずり、リビングのソファに深く沈み込んだ。 淹れたてのコーヒーを啜る。 ああ、なんて平和な土曜の朝なんだ。 もう、あの苦しい運動のことなんて忘れてしまおう。 そう思いながら、手持ち無沙汰にスマホを取り出し、何気なくニュースサイトを開いた。
その時だ。 画面の「あなたへのおすすめ」に表示された、ある記事のタイトルが目に飛び込んできた。
『40代からのランニングは "衝撃" との戦いだ。最新テクノロジーが膝を守る』
まるで私の心を見透かしたようなタイミング。 おそらく、ここ数日の私の行動履歴や検索ワードから、アルゴリズムが導き出したのだろう。 普段ならスルーする広告記事だ。 だが、今の私には「膝を守る」という言葉が強烈に刺さった。
……テクノロジー?
吸い寄せられるようにタップした。 そこに書かれていたのは、精神論ではなく、物理学だった。
- 着地の衝撃は体重の3倍。
- その衝撃を、最新のフォーム材(クッション素材)がいかにして吸収し、反発力に変えるか。
- 科学的に計算されたソール形状が、スムーズな足運びをサポートする。
記事の中には、昨夜すれ違ったランナーが履いていたのと似た、分厚いソールのシューズの写真があった。 その断面図や素材の解説を読んでいるうちに、私の胸が高鳴り始めた。
なるほど……。餅は餅屋、か
今まで履いていたスニーカーが悪いわけではない。あれは街歩きのために作られた素晴らしい靴だ。 だが、「走る」という行為においては、専用に設計された道具には敵わない。 そこには明確な理由と、技術の粋(すい)が詰め込まれている。
「すごいな、最近のシューズはここまで進化しているのか」
自分が劣っていたから走れなかったのではない。 この「すごい道具」を使っていなかっただけだ。 もしこれを履いたら、私の走りはどう変わるんだろう? 記事にある通り、本当に楽に走れるようになるのか? 試してみたい。純粋にそう思った。
私はすぐにAmazonのアプリを開いた。 検索ワードは『ランニングシューズ 厚底 初心者 おすすめ』。 さっきまでの「走るのが憂鬱」という気持ちはどこへやら。今は未知のテクノロジーに触れる前のワクワク感に包まれている。
画面には、色とりどりのデザインと、「雲の上の走り心地」というキャッチコピー。 価格は、決して安くはない。 だが、この金額で「痛み」を取り除き、あのランナーのように涼しい顔ができるなら?
よし、買おう。ポチッとな
色は、どんなウェアにも合う「ブラック」を選んだ。 迷いなく『カートに入れる』ボタンをタップする。
注文確定の画面を見つめながら、私はニヤリと笑った。 これで膝の痛みから解放される。 それに、こんな本格的な靴を買ってしまったら、もう後戻りはできない。 届くのは明後日。 早くこの「最新の相棒」を足に装着して、その実力を確かめたい。
靴さえ変われば、すべてが変わる。 そう信じて疑わなかった。 それが、大いなる勘違いであることに気づくのは、もう少し先の話だ。