
11月も下旬に差し掛かったある日の昼休み。 私は自宅のデスクで、レンジで温めたばかりの弁当の蓋を開けた。
最近始めた、糖質や塩分が管理された冷凍宅配弁当だ。 彩り豊かな野菜と、鶏肉のトマト煮込み。 健康意識の高いメニューだが、私はその横に、別途用意したパックご飯(大盛り)をドンと置いた。
最近、妙に腹が減る。 以前ならこの弁当だけで十分だったが、今はこれに白米を足してもペロリと入ってしまう。
「まあ、走っているからな。燃費が変わったんだ」
栄養バランスが売りの弁当を食べているのに、炭水化物を追加しては意味がない気もする。 だが私は、「動いた分だけ食べてもプラマイゼロ」という都合のいい解釈をして、最後の一口を胃に収めた。 満腹感と、ランナーとしての充実感。 平和な午後だ。
そう思っていた矢先、会社のチャットツールの雑談チャンネルに【緊急】の文字が踊った。
『来月の社内対抗リレーマラソン、メンバーの一人が急な出張で出られなくなりました!』 『誰か代わりに走れる人いませんか? このままだと人数不足でチーム自体が出場辞退になってしまいます!』
リレーマラソン。 フルマラソンの距離(42.195km)を4人でタスキを繋いで走るイベントだ。 制限時間は、チーム合計で4時間30分。 一人当たりの担当距離は、約10キロだ。
チャット欄には、若手社員たちの悲鳴が並んでいる。 「10キロ!? 無理無理、死んじゃう」 「俺、運動不足すぎて1キロも走れません」 「誰かいないんですかー?」
私はお茶を飲みながら、少し考え込んだ。 10キロ。今の私が走れる最高距離は5キロだ。単純計算で倍の距離。 普通に考えれば「未経験の領域」であり、断るのが筋だろう。
だが、今の私には「5キロを余裕で走れた」という強烈な成功体験があった。 私はスマホを取り出し、検索窓に打ち込んだ。 『ランニング 10キロ 初心者 完走できる?』
トップに表示された記事には、こう書かれていた。 『5キロ走れる基礎体力があれば、ペースを落とせば10キロも完走可能です!』
なるほど。……いけそうじゃないか
私は深く頷いた。 要はペース配分の問題だ。 いつもの「ゆっくり走る」ペースを守れば、理論上はどこまでも走れるはずだ。心拍数は上がらないのだから、距離が倍になっても時間はかかるだけで、身体的な限界は来ないはずだ。
それに、ここで私が手を挙げれば、チームの窮地を救うことになる。 普段は「口うるさいおじさん」と思われているかもしれないが、ここで「走れる姿」を見せれば、少しは見直してもらえるかもしれない。
リスク? ない。私には最新の厚底シューズがある。全身黒の機能性ウェアがある。そして何より、半年間積み上げてきた「習慣」という実績がある。
私はキーボードを叩いた。
『もし誰もいないようなら、私が穴を埋めようか? 最近、少し走っているからね』
送信ボタンを押す。 数秒の沈黙の後、チャット欄には「山本さん!? マジですか!」「ありがとうございます!」
悪い気はしない。すると、若手社員の一人、ランニングサークルのリーダー格である田中くんからメンションが飛んできた。
『ありがとうございます! でも山本さん、普段どれくらいのペースで走られてますか? 制限時間がチーム合計で4時間半なので、一応作戦のために確認させてください!』
さすが経験者だ。私は余裕を持って返信をする。
『基本はLSD(長くゆっくり走る練習)だね。心拍数を上げないように、キロ8分から9分くらいで、5キロをノンストップで走っているよ』
少しの間があった。 彼らは裏で計算していたのだろう。 キロ9分で10キロ走ると、90分かかる。 制限時間から逆算すると、一人平均67分で走らなければならない。 つまり、私が走ることでチームに「20分以上の遅れ」を作ることになる。
普通なら「それだと厳しいです」と断られる場面だ。 だが、彼らは「いい奴ら」だった。すぐに田中くんから、明るい返信が返ってきた。
『おお、5キロ完走できるなら基礎体力はバッチリですね!』 『タイムの方も、僕たちがその分カバーします! 余裕もあるので全然間に合う計算です!』 『それに本番はアドレナリンが出るから、練習よりきっと速くなりますよ!』 『山本さん、ぜひお願いします! みんなでタスキ繋ぎましょう!』
彼らは純粋に、私の参加を歓迎し、自分たちがその分速く走ってカバーしようとしてくれていたのだ。 「遅くても大丈夫、僕たちが支えます」という優しさだった。
だが、私はその言葉を、これまた都合よく変換して受け取った。
『基礎体力バッチリ』『本番はもっと速くなる』か。経験者から見ても、俺はいけるってことだな
私は彼らの必死のフォローを「私のポテンシャルへの期待」だと完全に勘違いし、満足げに頷いた。 彼らが私の分のタイムを削り出すために、死に物狂いで走る覚悟を決めたことなど露知らず。
『分かった。では、当日は任せてくれ』
その一言で、正式にエントリーが決まった。 私はスケジュール帳の12月の週末に『リレーマラソン』と書き込み、パソコンを閉じた。
ふと、夜の窓ガラスに映る自分の姿が目に入った。 全身黒のウェア。以前より少しだけ精悍になった(気がする)顔つき。 私の脳裏に、半年前にすれ違ったあのランナーの姿がよぎった。 風のように走り去っていった、あの憧れの背中。
今の俺なら、少しは彼に近づけたかな
そう呟き、私はニヤリと笑った。 あの日、遥か遠くに見えた「あちら側の世界」に、自分も足を踏み入れたのだという確かな実感があった。
……しかし、この時の私は、大きな間違いを犯していた。
「一人で自分のペースを守って走る5キロ」と、「周りの期待とタイムを背負って走る10キロ」が、全くの別物であることを理解していなかった。 さらに言えば、私は「走ること」は覚えたが、「走った後のケア」については何も知らなかった。
ストレッチもせず、柔軟運動もせず、ただ走ってビールを飲むだけ。 そんな生活を続けてきた45歳の関節が、本番の高揚感(アドレナリン)と倍の距離の衝撃に耐えられるはずがないことを、まだ知る由もなかったのだ。
私の「ぶっつけ本番の日」まで、あと2週間。 その日は、確実に近づいていた。