気づけば、私は30分以上走り続けていた。 一度も歩くことなく、一度も立ち止まることなく。 家の前に戻ってきて、時計の停止ボタンを押す。
サマリー画面を確認する。 距離は3キロちょっと。ペースは「キロ9分」。 以前の私なら「遅すぎる」と絶望していただろう数字だ。
だが、私は別の数字を見てニヤリと笑った。 心拍数のグラフだ。 最初から最後まで、低い位置で安定して推移している。一度もレッドゾーンに入っていない。
あれ? なんかこのペース、すごく気持ちよかったぞ
汗は心地よい程度。膝の痛みもない。 何より、走り終わった直後なのに「明日もまた走りたい」と思えている自分がいた。 頑張らない勇気。 それこそが、三日坊主の私を救う唯一の特効薬だったのだ。
***
それからの一ヶ月、私は憑き物が落ちたようにLSDを繰り返した。 週に3回。ゆっくり、長く。 基本は3キロ。調子が良くて、なおかつ翌日に響かないと判断した時だけ、4キロまで足を伸ばしてみる。 「5キロ」という壁はまだ厚いが、以前のように1キロで息絶えていた頃に比べれば、劇的な進歩だ。
ある夜、風呂上がりに久しぶりに体重計に乗ってみた。 一ヶ月も走ったのだ。さぞかし劇的な数字が出ていることだろう。 期待して液晶画面を覗き込む。
しかし、表示された数字を見て、私は眉をひそめた。
『+0.5kg』
開始前よりも500g増えている。 あれだけ走ったのに? 晩酌のビールも(気持ちだけ)少し控えたのに?
私は首を傾げながらも、「まあ、水分量の誤差だろう」と無理やり自分を納得させ、その場を離れた。 だが、心の中には「ランニングなんて、本当は痩せないんじゃないか?」という小さな疑念が芽生えていた。
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その翌日は出社日だった。 オフィスの給湯室でコーヒーを淹れていると、後ろから声をかけられた。 総務部の佐藤さんだ。いつも明るい挨拶で社内を和ませてくれる存在だ。
あれ、山本さん。なんか少し、シュッとしました?
え? ……ほんとうに?
不意打ちだった。 私はコーヒーをこぼしそうになりながら、まじまじと彼女の顔を見てしまった。
はい。顔周りとか、少しほっそりした気がします。何かされてるんですか?
お世辞かもしれない。だが、悪い気はしなかった。 むしろ、昨夜の体重計ショックを引きずっていた私には、救いの一言だった。
私は「まあ、少し走ってるくらいだよ」と、できるだけクールに返したつもりだが、口元が緩むのを抑えるのに必死だった。
そうなんですか! 実は私も、朝少し走ってから会社に来るんですよ。おそろいですね!
えっ、佐藤さんも?
まさかの仲間(同志)発見だ。 彼女は爽やかに笑って去っていったが、私の仕事に対するモチベーションはストップ高になった。 デスクに戻った後も、緩んだ口元が戻ることはなかった。
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その夜。 帰宅した私は、すぐさま洗面所の鏡の前に立った。
体重計には乗らない。 代わりに、自分の顔と体をじっくりと観察する。
言われてみれば、確かに顎のラインが少しシャープになった気がする。 ベルトの穴も、心なしか一つ分余裕ができている。
悪くない。いや、むしろ良いじゃないか
数字(体重)がどうであれ、見た目が変わっているなら、それは確実な成果だ。 そして何より、「走っている自分」を肯定してくれる人がいた。 それだけで、この一ヶ月の努力がすべて報われた気がした。
よし、続けよう。この調子なら、もっといけるはずだ
私は完全に浮かれていた。 走れる距離は伸びた。膝も痛くない。そして見た目も変わり始めた。 このペースで続けていれば、いつかは5キロ、いや10キロだって夢ではないはずだ。
……そう。 この時の私は、自分の成果に酔いしれ、忘れていたのだ。
もうすぐ日本特有の「あのジメジメした季節」がやってくることを。 そして、私が何も考えずに着ている「コットンのTシャツ」という初期装備が、最大の弱点となって私を襲うことを。