
魔法の靴と、禁断の果実
日曜日。待ちに待ったその荷物は、夕方の配送で届いた。無機質な段ボールを開けると、真新しい靴箱が現れる。蓋を開けた瞬間、独特の化学繊維と新しいゴムの匂いが鼻をくすぐった。
おぉ……これが、ランニングシューズか。
手に取ってみて、そのボリューム感に驚いた。 今まで履いていたスニーカーの倍近い厚みがあるのに、持ってみると羽のように軽い。 指で白いソールを押すと、グニッとした確かな弾力が返ってくる。 街歩き用のスニーカーとは、もはや設計思想が根本から異なる「別の工業製品」だ。
私は居ても立ってもいられなくなり、玄関で紐を通し始めた。 足を入れる。 包み込まれるようなフィット感。 立ち上がってみると、フワフワとした雲の上に立っているような柔らかさを感じた。
今までのペラペラのソールとは全く違う。 だが、それは頼りない柔らかさではない。 体重をかけると、沈み込んだ後にグッと下から支えてくれるような芯の強さがある。
まだ走ってもいないのに、足元から「さあ、行こうぜ」と誘われているような、ポジティブな予感が湧き上がってきた。 私はTシャツにジャージ姿で、日没前の薄明かりの中へ飛び出した。
***
恐る恐る、最初の一歩を踏み出した瞬間。 私は思わず声を漏らした。
うわ、なんだこれ。柔らかい……!
まず、「ドスッ」という、あの嫌な衝撃がない。 着地のたびに、厚い底が「グニュッ」と深く沈み込み、私の体重をすべて吸い込んでしまう。 アスファルトの硬さが嘘のように消えている。
だが、もっと驚いたのは「衝撃の分散」だ。
私の体幹は弱く、走るとどうしても上半身が左右にブレてしまう。 以前のスニーカーなら、そのブレた荷重がそのまま「ねじれ」として膝関節を直撃していた。 だが、この靴は違う。
少しバランスを崩して斜めに着地しても、分厚いソールがその形に合わせて柔軟に潰れてくれるのだ。 まるで高性能なクッションが、一点にかかる圧力を全体にフワッと逃がしてくれるような感覚。 本来なら膝に来るはずのダメージを、このソールがすべて肩代わりして分散してくれている。
足が軽い。膝も痛くない。 これならいける。もっといける。 「痛み」と「ブレ」という二つのリミッターが外れた私は、知らず知らずのうちにペースを上げていた。
腕を大きく振り、地面を蹴る。 風が耳元で強くなる。 息はすぐに上がり始めた。「ゼー、ハー」と荒い呼吸が漏れる。 心臓が早鐘を打っているのが分かる。 けれど、足は止まらない。 新しい靴という相棒が、私の未熟な走りを完璧にカバーしてくれている。
鶴見川の土手まで、全力に近いスピードで駆け抜けた。 折り返し地点で一瞬立ち止まったとき、私は肩で息をしながらも、強烈な全能感に震えていた。
はぁ……はぁ……ッ。俺、今、めちゃくちゃ速かったんじゃないか?
これだけ苦しいのだ。これだけ心臓がバクバクしているのだ。 きっと、あの夜に見かけた「ガチ勢」のランナーと同じくらいのスピードが出ていたに違いない。 私は興奮冷めやらぬまま、残りの道のりも全力で走りきり、帰宅した。
玄関に倒れ込むように座り込む。 汗が滝のように流れ落ちるが、不思議と膝の痛みも、足首の疲れもない。 間違いなく、人生で一番「走った」と言える日だ。 私は震える手でスマホのストップウォッチを止めた。
『23分15秒』
これが速いのか遅いのか、正直基準が分からない。 距離も正確には分からない。たぶん5キロくらいだろうか。
だが、そんなことはどうでもよかった。 重要なのは、私が「身体のブレや痛みに気を取られることなく、全力を出し切れた」という事実だ。 道具が変われば、人間はここまで変われるのか。
……勝ったな
誰に、何に勝ったのかは分からない。 おそらく、老い始めた自分の身体にかもしれないし、三日坊主で終わりかけていた過去の自分にかもしれない。
私はシャワーを浴びながら、浴室の鏡に向かってニヤリと笑った。 この靴さえあれば、俺はどこまでも走れる気がする。 明日も走ろう。明後日も走ろう。 俺はもう、立派な「ランナー」の仲間入りを果たしたのだ。
その夜、私は心地よい疲労感に包まれ、泥のように眠った。 自分が「速い」と思い込んだまま眠りにつける、最後の幸せな夜だった。