ランニング・ロジック 第1章

第5話:雲の上を走るような衝撃。〜初めての厚底ランニングと、45歳に訪れた「全能感」〜

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魔法の靴と、禁断の果実

日曜日。待ちに待ったその荷物は、夕方の配送で届いた。無機質な段ボールを開けると、真新しい靴箱が現れる。蓋を開けた瞬間、独特の化学繊維と新しいゴムの匂いが鼻をくすぐった。

たいち
たいち

おぉ……これが、ランニングシューズか。

手に取ってみて、そのボリューム感に驚いた。 今まで履いていたスニーカーの倍近い厚みがあるのに、持ってみると羽のように軽い。 指で白いソールを押すと、グニッとした確かな弾力が返ってくる。 街歩き用のスニーカーとは、もはや設計思想が根本から異なる「別の工業製品」だ。

 私は居ても立ってもいられなくなり、玄関で紐を通し始めた。 足を入れる。 包み込まれるようなフィット感。 立ち上がってみると、フワフワとした雲の上に立っているような柔らかさを感じた。

今までのペラペラのソールとは全く違う。 だが、それは頼りない柔らかさではない。 体重をかけると、沈み込んだ後にグッと下から支えてくれるような芯の強さがある。

まだ走ってもいないのに、足元から「さあ、行こうぜ」と誘われているような、ポジティブな予感が湧き上がってきた。 私はTシャツにジャージ姿で、日没前の薄明かりの中へ飛び出した。

 ***

 恐る恐る、最初の一歩を踏み出した瞬間。 私は思わず声を漏らした。

たいち
たいち

うわ、なんだこれ。柔らかい……!

まず、「ドスッ」という、あの嫌な衝撃がない。 着地のたびに、厚い底が「グニュッ」と深く沈み込み、私の体重をすべて吸い込んでしまう。 アスファルトの硬さが嘘のように消えている。

だが、もっと驚いたのは「衝撃の分散」だ。

私の体幹は弱く、走るとどうしても上半身が左右にブレてしまう。 以前のスニーカーなら、そのブレた荷重がそのまま「ねじれ」として膝関節を直撃していた。 だが、この靴は違う。

少しバランスを崩して斜めに着地しても、分厚いソールがその形に合わせて柔軟に潰れてくれるのだ。 まるで高性能なクッションが、一点にかかる圧力を全体にフワッと逃がしてくれるような感覚。 本来なら膝に来るはずのダメージを、このソールがすべて肩代わりして分散してくれている。

足が軽い。膝も痛くない。 これならいける。もっといける。 「痛み」と「ブレ」という二つのリミッターが外れた私は、知らず知らずのうちにペースを上げていた。

腕を大きく振り、地面を蹴る。 風が耳元で強くなる。 息はすぐに上がり始めた。「ゼー、ハー」と荒い呼吸が漏れる。 心臓が早鐘を打っているのが分かる。 けれど、足は止まらない。 新しい靴という相棒が、私の未熟な走りを完璧にカバーしてくれている。

鶴見川の土手まで、全力に近いスピードで駆け抜けた。 折り返し地点で一瞬立ち止まったとき、私は肩で息をしながらも、強烈な全能感に震えていた。

たいち
たいち

はぁ……はぁ……ッ。俺、今、めちゃくちゃ速かったんじゃないか?

 これだけ苦しいのだ。これだけ心臓がバクバクしているのだ。 きっと、あの夜に見かけた「ガチ勢」のランナーと同じくらいのスピードが出ていたに違いない。 私は興奮冷めやらぬまま、残りの道のりも全力で走りきり、帰宅した。

玄関に倒れ込むように座り込む。 汗が滝のように流れ落ちるが、不思議と膝の痛みも、足首の疲れもない。 間違いなく、人生で一番「走った」と言える日だ。 私は震える手でスマホのストップウォッチを止めた。

『23分15秒』

これが速いのか遅いのか、正直基準が分からない。 距離も正確には分からない。たぶん5キロくらいだろうか。

だが、そんなことはどうでもよかった。 重要なのは、私が「身体のブレや痛みに気を取られることなく、全力を出し切れた」という事実だ。 道具が変われば、人間はここまで変われるのか。

たいち
たいち

……勝ったな

誰に、何に勝ったのかは分からない。 おそらく、老い始めた自分の身体にかもしれないし、三日坊主で終わりかけていた過去の自分にかもしれない。

私はシャワーを浴びながら、浴室の鏡に向かってニヤリと笑った。 この靴さえあれば、俺はどこまでも走れる気がする。 明日も走ろう。明後日も走ろう。 俺はもう、立派な「ランナー」の仲間入りを果たしたのだ。

その夜、私は心地よい疲労感に包まれ、泥のように眠った。 自分が「速い」と思い込んだまま眠りにつける、最後の幸せな夜だった。

-ランニング・ロジック, 第1章